不可解
時が流れる、お城が見える
アルチュール・ランボー
― 鷲田清一 《折々のことば》 ―
この四月から朝日新聞の一面に《折々のことば》と題して鷲田清一氏が名言・名句の連載を始めた。
今日はその4回目。
冒頭のような言葉が引用されていた。
以下、本文に当たる部分を写してみる。
原文はコンマをはさんで「季節(セゾン)」「城(シャトー)」という語が
二つ、「オー」というため息とともに並ぶだけ。ふつうなら「ああ季節、
ああ城」と訳すところ。これを小林秀雄はなんと「季節(とき)が流れ
る、城砦(おしろ)が見える」と訳した。中原中也の訳もこれに倣ってい
る。「流れる」「見える」という動詞を加えることで、時のたなびき、物
の佇(たたず)まいがいっそう濃密になる。詩集「地獄の季節」から。
読みながら、「はて?」と思った。
季節(とき)が流れる、城砦(おしろ)が見える
無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何処にあろう?
とこの詩を訳したのは中也の方である。
小林秀雄の「地獄の季節」の訳の中のこの部分は、手元にある全集でも岩波文庫版でも、
あゝ、季節よ、城よ、
無疵なこころが何処にある。
なっている。
言うてしまえば、逐語的訳、である。
鷲田氏はその本文をどのようなテキストをもとに書いたのだろうか。
不可解なことである。
ランボーの原詩に
「流れる」「見える」という動詞を加えることで、時のたなびき、物の佇まいがいっそう濃密になる。
という指摘はそのとおりだが、その功は、小林にではなく中也にあるはずである。
それにしても
時が流れる、お城が見える
とは誰の訳なのであろうか。
耳で聞けば中也のそれとは言葉は同じであるが、目にする字面がまるでちがう。
不思議な引用である。