あほう巻き
埴を挻ちて以て器を為る。
其の無に当って器の用あり。
戸牖を鑿ちて以て室を為る。
其の無に当って室の用あり。
故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。
ー 『老子』 十一章 -
今日、電車に乗って船橋の図書館に行った帰り(習志野の図書館は蔵書が貧弱すぎる!)、とんかつ屋に入ったら、壁に
招福開運 とんかつ恵方巻き
予約承ります。
というポスターが貼ってあった。
どこの商売人が始めたことか知らないけど、なんなんですかね、この《恵方巻き》って。
なんでも、節分に、なんだかよくわけのわからない大きなのり巻きを一本、口一杯に頬張って、どこかの方角を向いてむしゃむしゃ食べるらしい。そうすると、《福》がやってくるのだとか。
品がないですねぇ。
美しくない!
こんなこと、本気でやってる家が日本にあるんでしょうかねえ。
もしあったとしたら、そんな家に《福》は絶対にやってきませんぜ。
言っておきますが、節分にのり巻きを口一杯に頬張ることと「鬼は外」と豆を撒くことは、行って帰るほど違っている。
節分に豆を撒くのは、鬼が家の中に入ってくるのを防ぐためだ。そこには、鬼(邪気)が家に入ってこないことをもって《福》とする、日本人の実に健全な幸福観がある。家に災いが訪れないことを「仕合せ」と思うつつましやかな願いがある。
それに対してのり巻きを頬張るのは、どうやら、「今以上の幸福」がやってくることを願う所作らしい。
イヤですねえ。 美しくありません。
「足るを知る」ってのが、幸せになる第一条だってのは、世の東西を問わずいやしくも賢人と言われた人が誰でも言っていることですよ。それを、口いっぱいに何かを頬張って「今以上にもっと福を寄こせ!」なんて、阿呆以外に誰がやるんでしょう。
それに、引用した文章(読めないようなエラソーな引用でごめんね)老子さんはこう言うておりますぜ。
粘土をこねて、器を作るわな。そのとき、器として使うのはなにも入っていない空っぽの部分だろ。
ドアや窓を付けて部屋を作るわな。そのとき部屋として使われるのは何もない空っぽの空間だよな。
つまりな、ものが役に立つってのは、なーんにもない空っぽの部分があるからなんだよ。
たぶんね、のり巻きでいっぱいになった口には、もう何も入りませんよ。《福》が入り込む余地もない。
器は空っぽにしておけば、おいしいビールだって入ってくる。でも、そこに何かが詰まっていれば何も入れられない。
たぶんね、人間だって一緒です。
空っぽにしてれば、幸せはやってくる。それを《仕合せ》と思える人のところに幸せはやってくる。
でも、その人が欲で一杯だったら、何も自分の中にはやってこないんじゃあないでしょうかねえ。
明日、私は豆を撒きません。けれど今年もまた、近所のどこかの家から幼い子どもの「福は内、鬼は外」という声が聞こえてくるでしょう。たぶん、その声は私の家の邪気も消してくれます。
節分とはそもそもそういうもののはずです。