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劇の始まりかた

    

       子曰く、後生畏るべし。
       焉(いづく)んぞ来者の今に如かざるを知らんや。

 

           ー 『論語』 ー

         

   

 能をのぞくあらゆる劇は闇から始まる。(能がなぜそうでないかについての考察はいつか書く機会があるだろう。)
 すべての照明が落とされ劇場が闇の中に沈んだとき、それまで所在なさげに、渡されたリーフレットなどを眺めていた観客の視線はおのずと舞台に向く。
 すると突然一条の光が舞台に差し込む。
 劇が始まる。

 子どもの頃の学芸会や文化祭はともかくとして、大人になって初めて舞台演劇というものを観たとき、私を感動させたものは、この舞台に最初に差し込む光だった。
     「光あれ」
 聖書によれば、世界の始まりのとき、天地をつくった神は最初にこう言ったのだという。

         黒暗(やみ) 淵(わた)の面(おもて)にあり。
         神 「光あれ」と言いひたまひければ光ありき。
        神 光を善しと観たまへり。 

                            - 『聖書』 (「創世記」)ー

    ああそうなのか!
と思った。舞台というのはその一つ一つが聖書のこの「神の業」を繰り返しているのだと思った。
    闇に初めて光が射し、そこから〈新しい世界〉が始まる。
 そう思ったのだ。わくわくした。

 しかし、そこに本当に〈新しい世界〉は始まっただろうか。
 見慣れた日常を少し変えただけの設定の中で、声高に何かを語る役者たち。時折はさまれる品のない底の浅いくすぐり。それを待ち構えていたように笑う周囲の観客たち。
   何なんだ、これは!
 小劇団の舞台を観るたび否応もなく感じてしまう、このどうしようもない違和と軽蔑に私はいつもうんざりしていたのだ。

 恒十絲の今回の演劇もまた闇から始まる。
 しかし、光はこの劇が始まる合図ではない。初めの光によって「世界」はまだ新しくはなっていない。
 薄明とも呼ぶべき控え目な照明の中を上手から登場した素顔の女が無言のまま舞台をよぎっていく。そのあと、舞台の奥の椅子の上に置かれた真っ白な仮面に気づいた彼女は、それを何気なく自分の顔に付ける。この瞬間「劇」が始まる。
 つまり、最初素顔で現れた女は「何者でもない」のだ。そして、最後まで彼女が何者であるかは明らかにされない。なぜなら、彼女が何者であるかなぞ、この劇においては何の意味もないことだからだ。劇は〈仮面〉が演じる。

 劇とは、言ってしまえば役者がそれぞれの役柄の〈仮面〉を付けるということだ。「演じる」とはそういうことだ。
 もちろん、彼らは舞台に上る以前にその〈役という仮面〉をつけて登場する。「なりきる」とはそういうことだ。
 だが、恒氏はそうすることを拒絶する。
 彼は素顔のまま役者を登場させる。彼は舞台の上で初めて役者に〈仮面〉を付けさせるのだ。
 そのようにして彼は芝居を始めるのだ。
 やがて〈仮面〉を付けた彼らは台詞を語りはじめる。それは、あたかも〈仮面〉が彼らにそれを言わせているかのように見えながら、不思議なことに舞台を観ている者が感じるものはむしろ逆のものだ。少なくとも私が感じたものは〈仮面〉を付けたことによる彼らの《制約》ではなく、そのことよって役者たちが得た《自由》だった。
 〈仮面〉を付けた彼らはどんなに奔放に自分を語れることだろう。どんなに自在に自分の体を操り動き回れることだろう。一方、役を降りて舞台の袖や奥の椅子に腰をおろして控える彼らはしばらくすると面を外すのだが、その後、彼らは身じろぎ一つしない。表情一つ変えない。光の当たりかげんでさまざまに変化するあの〈仮面〉の表情の豊かさに比べ、素顔というもののなんという生気のなさ! ここでは、仮面と素顔とが完全に逆転しているのだ。
 さっき私は、彼らが〈仮面〉を付けることによって「自分を」語る、と書いたが、彼らが語る台詞はむろん恒氏が書いたものだ。にもかかわらず彼らはまちがいなく「自分」を語っていたのだ。彼らが〈仮面〉を付け、表情という余計なものを捨てたとき、彼らが語る恒氏の台詞は彼ら自身の言葉になっていたのだ。
 なぜ、そんなことを私は言うのか。
 演じるということの本質がそこにあると思うからだ。なりきるといういうことの意味もまたそこにあるからだ。
 それが、今回の演者たちはできていた。少なくともそう見えた。
 
 今回の舞台において〈仮面〉について言及される台詞は一つとしてなかった。だが、この劇が語っていることのすべては〈仮面〉に関することなのだ。「演じる」ということの根源への深い洞察が恒氏にこのような演出をさせたのだと私は思った。

    おまえがいま自分の顔だと思っているその素顔は、本当におまえのものなのか!
    おまえがいま自分の意見だと思って話しているその言葉は、本当におまえの言葉なのか!
    おまえが一番生き生きするのは、おまえがおまえであることを忘れている時ではないのか!
    おまえは、本当におまえが思っているようなおまえなのか!

 恒氏の舞台にあったものは、生きることの根源を問おうという真摯な姿勢だ。演技の本質に迫ろうとする執拗な追求だ。
 その目指すところは凡百の自称劇団人をはるかに超えていた。
 

 引用した『論語』は言うまでもなく孔子とその弟子たちの言行録。

 自分よりも後に生まれた者(後生)つまり後輩たちをこそ、畏れるべきなんだよ。
 どうして未来の人間(来者)である彼らが、いつまでも今の人間に及ばないでいるなんてわかるんだい!

 という意味。
 高崎君はいつの間にかぼくのずいぶん前をすたすた歩いていたのだったよ。

  後生畏るべし!

 

 

  

 

 


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