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《徒然草》  第七十五段

 

れづれわぶる人は、いかなる心ならん。
まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。
世にしたがへば、心、外の塵に奪はれて惑(まど)ひやすく、人に交はれば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。
人に戯(たはぶ)れ、物に争ひ、一度(ひとたび)は恨み、一度は喜ぶ。
そのこと定まれる事なし。 分別みだりに起こりて、得失やむ時なし。
惑ひの上に酔(ゑ)へり。
酔ひの中に夢をなす。
走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、人みなかくのごとし。
いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづ)かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。
「生活(しようかつ)・人事(にんじ)・伎能・学問等の諸縁を止めよ」 とこそ摩訶止観(まかしくわん)にも侍れ。

 

「つれづれ」をつらく思う人は、どのような気持ちなのであろうか。
心が、ほかのことにまぎれることなく、ただ一人でいるということこそいいのではないか。

世間に合わせて暮らしていると、外部のさまざまなことに心が奪われて惑いやすく、人と交際していると、言葉は、相手にどう聞こえるかを気にしたものになってしまって、まったく自分の本心とはちがうものになる。
人とふざけ合っているかと思えば、物をめぐって争い、ある時は恨み、ある時は喜ぶ。
そういった心の動きは、一時たりともじっとしていることがない。
あれはああだ、これはこうなる、という分別の思いばかりが心に浮かび、その利害得失を思う心はとめどもない。
それは惑いの中に酔っているのだ。
酔いながら夢を見ているのだ。
忙しげに走りまわり、そんな中でぼうっとして、本来あるべき己の姿を忘れているのが、人みなのありようなのだ。

まだ、ほんとうの仏の道は知らなくとも、外界の刺激を離れて身を閑居の中におき、世間のことにかかわらず心を安らかに保つ事が、たとえ一時のこととはいえ生を楽しむということができるだろう。
「生活のための活動や、人との交わり、あるいは技術・芸能、学問などのもろもろの縁を止めよ」
と、摩訶止観にも書いてござる。

 

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徒然草において「つれづれ」という言葉で始まる章段といえば、この章段と、もう一つは、いうまでもなく序段である.

しかし考えてみれば、序段で書かれた
《日くらし、硯にむかひて、こころにうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつく》
る姿とは、まさに、ここで書かれている「つれづれわぶる人」の姿そのものなのではあるまいか。

れづれわぶる人は、いかなる心ならん

などと書いてはいるが、「いかなる心」もなにも、兼好自身がそれをよく知っていたはずだ。

けれども「つれづれ」とは
《まぎるるかたなく、ただひとりある》
ことであると兼好自身がこの章段で書いている。
そう書いている男が、《こころにうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつ》けても、なにもまぎれるわけではない。
たぶん、それでまぎれるなら、それは彼の言う「つれづれ」ではなくなるだろう。
そんなものでまぎれぬ心を見つめたとき
《あやしうこそものぐるほしけれ》
という言葉が出てくるのだろう。

ところで、私は、二十歳以降のほとんどが「つれづれ」だった。
それは今も変わらない。
そしてたぶんは、つれづれわびて本を読み、つれづれわびて映画を見、つれづれわびて煙草をふかし、つれづれわびて酒を飲んだ。
つれづれわびて牌を打ち、つれづれわびて碁石を並べ、つれづれわびて馬券を握り、つれづれわびて子どもたちの勉強をみてきた。
それは兼好に言わせると

惑ひの上に酔(ゑ)へり。
酔ひの中に夢をなす。

ということになるのだろうが、それがつまらないことだったかどうかはしらない。

「生活(しょうかつ)・人事(にんじ)」には、なるほど、あまりかかわりを持たなかったが、「まぎるるかたななく、ただひとりあ」って、そこに「伎能・学問」もないとすれば、それはいったい何事であろう。
それすらなければ、まったく「あやしうこそものぐるほしけれ」の人生であろう。

・・・・などと思いつつこの章段を読んだ。

 

 


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