凱風舎
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《徒然草》  第七十一段

 

名を聞くより、やがて面影はおしはからるる心ちするを、見る時は、またかねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ。
昔物語を聞きても、この頃の人の家の、そこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。

また、如何なる折ぞ、ただいま、人のいふ事も、目に見ゆる物も、わが心のうちも、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心ちのするは、我ばかりかく思ふにや。

 

人の名前を聞くと、すぐに私はその人の顔つきが自然と想像できるような気持ちがするのだが、実際に会って見ると、やはり前から想像していたとおりの顔をした人はいない。
また、私は、昔の物語を聞いても、その物語の中の家は、今のあのあたりだったのだろう、とか、物語に出てくる人のことも、今見ている人の中から、きっとあんな人だったのだろうと自然に思いなぞらえてしまったりするのだが、そのようなことは、誰も皆このように感じているのだろうか。

また、どうかした折に、まさしく今、人が言っている事も、目に見えている物も、はたまた自分のこころの動きも、このようなことは、いつだったかあった事だと感じられ、それがいつだったということは思い出せないのだが、たしかにあったという気持ちがするのは、私だけがそんなふうに思うのであろうか。

 

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こないだ、やって来た真君が一緒に観ませんかと言うので、彼のパソコンの中に入っている
《 Groundhog Day 》
という映画を観ることになった。
真君の持ってくる映画はいつものことながら、字幕も何もないので、真君が思わず笑っているような場面でも、わたしのリスニング能力では英語のセリフの機微がわからないので、笑うべくもないという事が多々ある。
しかし、そんな私でも、この映画は難なく筋を追うことができた。
そして、笑った。
それというのも、この映画は、同じ場面が何度も何度も繰り返される映画だったからだ。
なぜそのようなことになっているかといえば、なんと、主人公には毎日毎日目が覚めるとまったく同じ日しかやって来ないからなのだ。
彼の周囲にいる人たちにとっては、それは初めて来た「今日」であるのに、彼にとっては何度も何度も繰り返し繰り返しやって来る日なのだ。
ある地方の町で、グラウンドホッグ という、なんだかビーバーみたいなというか、プレーリードッグみたいなというか、そういう動物が冬眠しているのを引っ張り出して、その反応によって、春が近いか冬が続くかを占う日 Groundhog Day が、彼には毎朝毎朝やって来るのだ。
言うてしまえば、毎朝起きるたんびに、ある年の百万石まつりの日の金沢で目が覚める、みたいな話である。
それが、一日、二日という話ではない。
一月、二月、という話でもない。
たぶん、何年も何年も同じ日が続くのである。
毎日、毎日、百万石まつり。
毎日、毎日、同じニュース、同じ天気、同じ人。
しかも、彼はブリザードでその町から出られない。
うんざりするでしょ?
うんざりします。
で、主人公、そのうち自殺を試みるんですが、翌朝になると、やっぱり生きていて同じ日が続くんです。
すごいですな。
カミュのシジフォスの神話みたいです。
ところが、話は、あるところから、とんでもなくすばらしいことになっていくんですが、なんで、こんな話を思い出したかというと、この章段で、
おっと、兼好君、君、デジャブについて書いてるな
と思ったからです。
で、真君によれば、この映画の邦題は、「恋はデジャブ」というらしいんですな。
・・・と、まあ、それだけの話なんですが、この映画、たいそうおもしろく、しかも、なかなかに深い。
私はいろいろ考えてしまった。
おひまな折、お気が向きましたらビデオ鑑賞して下さいませ。