凱風舎
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《徒然草》  第七十二段

 

賎(いや)しげなるもの。
居たるあたりに調度の多き。
硯に筆に多き。
持仏堂に仏の多き。
前栽に石・草木の多き。
家の内に子孫(こうまご)の多き。
人にあひて詞(ことば)の多き。
願文に作善おほく書きのせたる。

多くて見苦しからぬは、文車(ふぐるま)の文、塵塚の塵。

 

 

品がなく見えるもの。
身の周りに道具類が多いこと。
硯に筆がたくさんあること。
持仏堂に仏像がたくさん置かれていること。
前栽に石やら草木がやたらにあること。
家の中に子孫が多いこと。
人と会ったときに詞が多いこと。
願いごとを書いたものに、自分の行なった善根をたくさん書き載せてあること。

多くても、みっとむなくないのは、書籍を運ぶ文車の中の書物と、ゴミ捨て場のゴミくらいなものだ。

 

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なにやら枕草子をまねしたような書きっぷりですな。
要は、《必要以上に物が多いのは下品に見える》と兼好氏はいうておられるんですな。
周囲に物をたくさん持ってよろこんでおる人がたくさんいるのを、よほど兼好は苦々しく思っていたんでしょう。

多くて見苦しからぬは、塵塚の塵。

なんてのは、ほとんど捨て台詞です。
これを書き終えて、兼好氏、かなりすっきりなされたことでしょう。

ところで、道具類が少なければ少ないほどいいというのは、人類を「ホモ・ポルターンス (運ぶヒト)」と定義した川田順三氏の説に従うなら、どうやら日本人独特の感性であるらしい。

氏によれば、日本ではきわめて単純な一つの道具をさまざまな用途に向けて使うのに対し、フランスを代表とする西欧では、道具というものをそれぞれの目的に合った物を多種にわたって作るのだそうだ。

そうなのか、と思って、考えてみれば、たとえば台所用品を考えればいい。
私の台所にもピーラー(皮むき器)がぶら下がっているが、こんなものは私が育った寺町の家の台所にはなかった。
ジャガイモの皮なんぞ、母親は包丁で剥いていた。
ピーラーを使えば、それこそ幼稚園児にだってジャガイモの皮は剥けるが、包丁ではそうはいかない。
熟練を要する。

出来上る品物の良し悪しが、その道具によってではなく、それを使う者の技量によってちがってくることが、個人個人のひとつひとつの道具に対する愛着をもたらしてきたことを、川田氏は日本の文化における「道具の人化」と呼んでいるが、要は、道具にすら人格が付与されていくというのだ。
一方、西洋では誰が使っても同じように出来るように道具を分化させていく。
麺棒と包丁で作る蕎麦とハンドルを回せばにょろにょろと出てくるパスタを思ってもいい。
あるいは、昔の日本人なら二本の箸だけですべてやってしまえることを、西洋人は、泡だて器やら、フライ返しやら、ゴムヘラやら、果てはパスタをゆでる時のブラシのイトコみたいな妙な道具まで、誰がやっても失敗がないような道具を次々に作っていることを思ってもいい。
だから、彼らは道具に対して日本人のような愛着は持たない。
そして、道具は多くなってゆく。

西洋は「個人主義」だというが、どうやら、事、道具に関する限り、そうではないらしい。
日本人ならどこの家だって、一人一人が使う茶碗も箸も決まっている。
娘の茶碗と箸でオヤジがご飯なぞ食べようものなら、これは一大家庭争議にも発展するかもしれぬゆゆしき事態である。
ところが、西洋ではフォークだろうがナイフだろうが、昨日それをだれが使ったかなんぞ気にする者はいない。
西欧においては道具はそもそも誰にでも使えるものなのだ。

とまあ、徒然草とは何のかかわりもないようなことを書いてきたが、

賎(いや)しげなるもの。・・・・の多き。

とたたみかけるこの章段の記述は、兼好がまさに日本人であったことの証しのような文章だなあと思ったりするわけです。