凱風舎
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《徒然草》  第五十六段

 

久しく隔たりてあひたる人の、わが方にありつる事、かずかずに残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。
隔てなく馴れぬる人も、ほど経て見るは,恥かしからぬかは。
つぎざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息もつぎあへず語り興ずるぞかし。
よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから人も聞くにこそあれ。
よからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆おなじく笑ひののしる、いとらうがはし。
をかしき事をいひてもいたく興ぜぬと、興なき事をいひてもよく笑ふにぞ、品(しな)のほどはかられぬべき。

人のみざまのよしあし、才(ざえ)ある人はその事など定めあへるに、己が身にひきかけていひ出でたる、いとわびし。

 

長い間会わずにいて、久しぶりに会った人が、自分の方にあったことをあれもこれもと残りなく語り続けるのは、嫌なものである。
親密に慣れ親しんできた人でも、しばらくぶりに逢うときは、すこしは気の引ける思いがするものではないか。
一段劣った人というのは、ちょっとよそに出かけたりしただけでも、今日あったことだといって、息もつくひまもなく一人でおもしろがって話し続けるものです。
教養がある上品な人が話をするときは、たとえたくさん人がいても、ただ一人に向かって話し、それに自然と周りの人たちも耳を傾けるというものである。
ところが、無教養で品のない人ときたら、誰に語るというのでもなく、たくさんの人の中に身を乗り出して、まるで見世物のように語って、皆も同じように見世物をみているように笑い騒ぐのは、実にうるさい。
おもしろいことを話しても、話し手自身が大げさにおもしろがったりしないのと、おもしろくもないことを話していても、話し手自身がまっさきによく笑ったりすることで、その人品がわかってしまうものだ。

人の容貌風采のよしあしのことや、学問のある人の場合はその学問について論評し合っているとき、自分のことを引き合いに出して言いだすのはたいそう興ざめする。

 

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まあ、兼好に言わせれば、わたくしなんぞは正真正銘の「つぎざまのひと」でございますな。
だいたい、人の顔を見たとたん
「知っとっけ」
などと言って話しはじめるなんてのは、「つぎざまのひと」の最たるものです。

まあ、あんまり馴れ馴れしいのもどうかとは思いますが、誰にも親しげに話してくれる人がいて、ずいぶん救われることもあるものです。