凱風舎
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正月の憂鬱

 

 

 イオーナの胸をたち割って、そこからふさぎの虫を外へ流したら、きっと世界中にあふれただろうが、それなのに、ふさぎの虫は外からは姿も見えない。それは昼ひなか火をともしてさえ見えないような、ちっぽけな殻のなかに隠れることができるのだ。

 

   ― チェーホフ 「ふさぎの虫」 (池田健太郎訳)―

 

 金曜日、電話があった。
 「ほーい、テラニシですがぁ」
と、例によって元気よく電話に出ると、なんと橋本忠明氏であった。
 「なんや、あんた、元気なんか。
 二日からなんも書いとらんから、体の具合でも悪いんかと思うて心配したぞいや」
とのことであった。
 うーん、申し訳ない。
 毎日読んでくださっている方もおられるのに、私、「通信」サボってました。
 しかも心配してくだすっている。
 病気、というほどのものではない。
 いえば、ロシアの小説なんかによく出てくる「ふさぎの虫」という奴でしょうか。
 実は、毎年、お正月になるといつもこうなるんです。
 ヨワッタことです。

 そもそも、年末年始というのは私のような無精者にはたいそうよろしいものである。
 なんにもやることがない。
 だあれも来ない。
 時間がゆったり流れる。
 天国である。
 しかるにしかるに、たいへん困るものが一つある。
 年賀状。

 「年賀状?
  あなただってもらえばうれしいでしょ。
  どこが困る!!」
と言われれば、まことにその通りである。
 正論である。
 郵便局も、穭田(ひつじだ)の間のゆるやかに曲がった道をゆく配達員の後姿の写真とともに
 《人の心が、年の初めに届く国。》
なんてことを書いた紙を年賀状と一緒に配ってくださる。
 あゝ、日本はいい国だ。
 そうです、人の心が届く、のはたいへんうれしい。
 でもね、困るものはコマルのである。
 だって、年賀状、もらったら、返事を書かなけあならないんだもの。
 私も、相手に〈心〉を届けなけあならないんだもの。
 そう思って、私、毎年、お正月は憂鬱になるのである。

 「そんなねえ、あんた、今日日は何を措いても《絆》やおまへんか。
  年賀状もろうて文句垂れとるなんてバチが当たりまっせ!
  たかが年賀状くらい、ちゃっちゃっと返事書かんかいな!!」
などと関西弁で言われても、やっぱりシンドイものはシンドイのである。
 大石君の紹介してくれた大阪弁の「マタイ受難曲」にはまったく大笑いしてしまったが、これは笑ってられないのである。
 人間、やめたくなってくるのである。
 大げさな、なんて思わないでください。
 実に、実に、この通りのことが、正月が来るたびに、もう何十年も続いている。
 ほとほと自分がイヤになる。
 ふさぎの虫、です。

 今年もまた、そうでした。
 返事を書かねばといろいろ考えるのですが、なーんにも思いつかない。
 なにやら絵を描き、文句を考えるのですが、絵も文句もひどい。
 うんざりする。
 だって、私の書いたはがきには、届けるべき心、ちうもんが全然のっていないんだもの!
 ほとほと、ほとほと、うんざりする。
 とてもじゃないが「通信」なんて書いてる気分じゃない。
 というか、お返事も書かないで「通信」だけは書いてる、なんて人倫にもとるでしょう。
 まあいいか、明日になったらもっとマシな賀状が書けるかも、と、酒を飲む。
 寝る。
 そして翌日になる。
 すると、また新しい年賀状が届いている。
 うーん。
 しんどい。
 あげく昼間、子どもに問題を解かせていると、子供が言う。
 「せんせ、どうしたの?」
 私としたことが、意味もなくため息をついていたらしい。
 ひどいもんです。
 どうせのため息なら、もうちょっと艶っぽいことでついてみたい。
 重症です。

 そんな悶々たる日々を過ごすうちに、今年も暦はいつか七日が過ぎました。
 すると、
 「もういいか」
という気分になる。
 「いくらなんでも七日過ぎて、年賀状もないだろう」
と思ってしまう。
 「今年も返事出さないままに正月終わっちゃおうっと」
って開き直る。
 私は「どうせ」なんてやくざな言葉をほとんど使わない男なんだが、毎年正月は言ってしまう。
 「どうせ、私は年賀状出さない男なんだもの!」

 というわけで、今年も年賀状は出さないまま松の内が過ぎてしまいました。
 年賀状を下すった方々には心からのお礼とお詫びを申し上げます。
 きっとこれから先も届きません。
 とはいえ、
 「年賀状の返事もださないなんて、自分はなんとやくざな男であろう!」
という思いは一月いっぱいくらいは続くんです。
 なにやらうすら重たいジコケンオが下腹部にわだかまっています。
 ほんとにイヤになります。
 ほとほと、ほとほと、一月はキライです。