凱風舎
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辻褄

 

 〈他者〉は他なるもの、私たちから独立なものであることにおいて、私たちを触発する。

 

  ― レヴィナス 『全体性と無限』 (熊沢純彦 訳) ―

 

 

 たとえば井伏鱒二の『山椒魚』や梶井基次郎の『檸檬』について私はその筋を語ることができる。
 (いやいや、暗誦することだってできる)
 ところが、そもそもこれらの小説に「筋」があるとして、そうやって私が「筋」を話したからと言って、『山椒魚』という小説も『檸檬』という小説も消えてなくなりはしない。
 その証拠に、「筋」は知っているのに私は何度もこれらの小説を読み、そしてそのたびにこれを愉しむことができる。
 そして、相手がこれらを読んだことのない若者なら、それらすべてを語るだけ語った後、
 「いっぺん読んでみ。ぜったいおもろいから」
とさえ言うことができる。

 これらがたった10ページほどの短編に過ぎない、と言われるなら、たとえばドストエフスキーの小説がある。
 『罪と罰』にしろ『白痴』にしろ、あるいは『悪霊』にしろ『カラマーゾフの兄弟』にしろ、そのおおまかな筋を語ることは出来るが、それを語ったところで、それは何一つこれらの小説について語ったことにはならない。
 ドストエフスキーを持ちだすのが大げさなら、たとえば『高慢と偏見』でもいいし、『あしながおじさん』でもいい。
 あるいは『赤毛のアン』でもかまわないし、漱石の小説だってかまわない。
 これらの小説について語ろうとして、人はきっとその魅力がけっしてその筋にあるのではないことに気づくはずだ。
 ある小説に魅入られれた人はけっしてその小説の筋のみを語りはしない。
 彼らはむしろその細部を多く語るだろう。
 そうして、最後にはこう言うだろう。
 「いっぺん読んでみ。ぜったいおもろいから」

 さて、昨日読んだ越谷オサムの『陽だまりの彼女』である。
 昨日私はこれを「筋を話せない小説」だと書いた。
 なぜ話せないのか。
 それはこの小説に筋がないからではなく、この小説には「筋しかない」からなのだ。
 もちろん、この小説にも細部はある。
 それもなかなか魅力的な細部だ。
 にもかかわらず、最後まで読み進んだとき、これらの魅力は瞬時にして消える。
 消えるように出来ている。
 なぜそうなのかといえば、最後に、話のすべての辻褄が合ってしまうからなのだ。
 最後まで読んだとき
 「ああ、だからあのとき彼女はあんな行動をしたのね」
とわかってしまうからなのだ。
 そして、何も残らない。

 たとえば今評判のミステリーというものの多くもまた同じような構造をしているのではなかろうか。
 それらの小説において「謎に満ちた」登場人物の行動には、実はすべてわかりやすい「動機」があることになっている。
 あるいは「トラウマ」(なんと簡便な!)などの原因があることになっている。
 それが最後に解き明かされる。
 そうやってすべての辻褄が合うようになっている。

 なぜ、そのような小説になるかと言うと、たぶんはそれを書く小説家の頭の中には、事件や登場人物より前にその辻褄があるからだ。
 彼らにとって小説を書くとはまずどうやって辻褄を合わせるかを考えることなのだ。
 まず最初に、最後の「謎解き」があって、そこからすべての細部が語られる、という構造なのだ。 
 
 読む方もまた最後の謎解きですっきりする、のかもしれない。
 けれども、辻褄が合うということは実はつまらないことなのだ。
 ドストエフスキイなどは、言ってしまえば、ちっとも辻褄が合わない。
 合わないままに小説が終わる。
 読み終わったとき読者は謎も解かれぬまま、ただ呆然としてそこに取り残される。
 人間というわけのわからないものを目の前に置かれて、とんでもないものを自分は読んでしまったのだと思ってしまう。
 だからこそ、いつまでたってもドストエフスキイについて語る奴はあとを絶たないのだ。
 それは読者が作者から宿題をもらうからだ。
 作者が謎を解いてくれないからだ。
 それは何もドスト氏の小説に限ったことではない。
 すぐれた小説とは多かれ少なかれそういうものだ。 

 昨日の佐藤氏の真似をするなら、私に謎を呼び起こす者が〈我〉にとっての〈汝〉というものである。
 その人が、いま何を感じ何を考えているかが気になることが自分がその人を恋していることの証しなら、謎を与えてくれる者だけが、私たちにとって大切な者なのだ。
 それだけが、私というものがいったい何であるかを私に教えてくれる。
 謎を呼びこさないものは〈他者〉ではない。
 私に謎を呼び起こさないものは、すぐに忘れ去られる〈他人〉に過ぎないか、あるいはすでに私の中に同化した〈家族〉であろう。
 それは私を不安にはさせないが、私を遠くに、あるいは深く、誘う魅力は持たないであろう。

 なぜ『陽だまりの彼女』が、最後の一行とともに、煙のようにその存在を消してしまうのかというわけは、たぶんそこにあるのだ。